SSブログ

ニューヨーク・タイムズにヴィットリオ・グリゴーロの(センセーショナルな)紹介記事(2010.10.14) [インタビュー&記事]

 10月5日の記事で紹介したニューヨーク・タイムズの"The Great Tenor Hope (Just Ask Him)" は、グリゴーロのインタビュー(ロンドンのマノンの公演中)を織り交ぜて書かれたグリゴーロの紹介記事です。毎シーズン、メトロポリタン歌劇場にデビューする歌手はたくさんいますが、ニューヨーク・タイムズがこれだけ大きな記事で紹介するのはめずらしいことのようです。

 パヴァロッティのインタビューもしたことがあるという筆者のマイケル・ホワイトは、かなりセンセーショナルな記事に仕上げていて、読者の受け取り方も様々、カチンときた人もいるようですが、グリゴーロに興味を持った人も多いようです。私にとっては、内容的に目新しいことはそれほどありませんが、さすがニューヨーク・タイムズ、かなり詳細に調べていて、面白い内容です。なんでグリゴーロだけ特別扱いなんだ....とか、カウフマンの名前がないのが悲しいとか、バカみたいなコメントも投稿されていますが、かなり反響があって、ヴィットリオ・グリゴーロの知名度がぐーんとあがったのは間違いないと思います。イタリアの新聞"Corriere della sera"でも、"Grigolo, il «Pavarottino» alla conquista del Met(グリゴーロ"パヴァロッティーノ"、メトを征服"という見出しで、「ニューヨークタイムズ紙は、グリゴーロに2ページを割いて....」と書いています。


The Great Tenor Hope (Just Ask Him) MICHAEL WHITE 2010年10月14日

 目下日の出の勢いのテノールは、映画スターのようにかっこよく着崩し、スニーカーを履き、黒髪を後ろになでつけて、ソファーにだらしなく寝そべっていたが、細身のシャツをちょっと直してあくびをした。ここロイヤルオペラ、コヴェントガーデンの舞台裏でのインタビューはひどいはじまりとなった。

 「インタビュー、とにかく多いです」 ヴィットリオ・グリゴーロは言った。そして、もう一言「うんざりだ・・疲れてるし・・」と、芝居がかったつぶやきをもらした。このとき、今はもう死んでしまったあのテノールとの出会いを思い出してしまった。クリゴーロ氏が後を継ぐ と言われているあの人だ。


 ルチアーノ・パヴァロッティの後継者と認められるということは、お気に入りになるということだ。不健康なオペラという娯楽は、個人的にはすっかり夢中になってはまっている人々によって、公然と時代遅れの代物と片付けられているにしてもだ。だから、大勢の候補者が列をなしている。その多くはすばらしいキャリアを築いたが、期待される存在感、個性、声のどれかが不足している。

 マルセロ・アルバレス、ロベルト・アラーニャ、ラモン・バルガス、サルヴァトーレ・リチートラは強力な候補者だったが、もう対象外。ファン・ディエゴ・フローレスは、装飾的ベルカントのレパートリーに特化した極端なすきま的才能だ。ローランド・ビリャソンはハリケーンのカトリーナ並みの登場後、自滅。

 今や本命は33歳のグリゴーロ氏だ。18ヶ月前にはオペラの観客にほとんど知られていなかった。高尚とは言えないサイモン・コーウェルのポップス、ボーイバンドの世界に身を投じていた。だが、職業カウンセラーたちが職業目的の再考と呼ぶであろうことをやってから、今はオペラに落ち着いている。そして、ビリャソン氏がキャンセルした役をいち早く手にして失われた時間を埋めているところだ。

 今週末、メトロポリタンオペラにデビューをする。フランコ・ゼッフィレッリ演出のプッチーニ「ボエーム」の再演でロドルフォだ。ソプラノあるいは、演出家あるいは指揮者の相手役としてのテノールが、スターとなるべく仕組まれている。だから、メトの運営者たちは、グリゴーロ氏の6月のコヴェントガーデンデビューでおこった凄い状況が繰り返されるのを全員が息をのんで待っているというわけだ。

 あの時はマスネの「マノン」の新演出でデ・グリューを歌った。ビリャソン氏が降板するまでは、ビリャソン氏とアンナ・ネトレブコの夢の共演のための舞台だった。その夢を壊さない、ネトレプコに負けない、代役を急いで見つけなければならなかった。グリゴーロ氏のキャスティングはギャンブルだった。

 ところが、結果は、コヴェントガーデンの常連たちの思い出せる限り、観客の反応はほとんど恍惚状態で、大当たりだった。比較できると、はっきりしているものとしては、1959年ジョーン・サザランドのランメルムーアのルチアか、その数年後のマリア・カラスのさよなら公演まで戻らないとすれば、ビリャソン氏がどこからともなく登場して2004年オッフェンバックの「ホフマン物語」でデビューしたときなのは、意味深長。熱狂振りはセンセーショナルだった。「マノン」でのグリゴーロ氏に対しても同様だった。

 極限まで押し進め、最後まで持続する尽きざるエネルギー、自信満々で圧倒的。世界が待ち望んでいたベルのように鳴り響く、まさしくロブスト、リリックテノールの響き。そして、役の人物に見えた。若くてハンサム。動物的敏捷さ。初日、盛大な拍手喝采が巻き起こった。批評は「コヴェントガーデンデビュー大成功」(The Telegraph) 「神から使わされたHD映画俳優」(The Sunday Times)尤も、ビリャソン氏のようにあまりにも抑制なく舞台に立ち過ぎるのは早く燃え尽きる危険があることを心に止めるべきだとの警告もあった。

 マノンの初日の数日後、グリゴーロ氏があのソファから言った通りだったのだ。「まるで劇場が燃え上がったようだった。ぼくはいつもポッブコンサート的反応を夢見ているんだけど、コヴェントガーデンではびっくりだった。ぼくのエージェントが言った。こんな喝采は30年間聞いたことがないって」

 イタリア人の彼が、イタリア人の冷静さとあふれる活力その他諸々によって、役にどれほど没入するか聞いた。「架空のことを演じるのはぼくにとって簡単なことです。役に情熱やロマンチックな気分や精神の高貴さが必要な場合、ヴィットリオこそまさしくそういう男です。必要なことはエネルギーと集中力をコントロールするために、自分自身のたずなを引き締めて、初めと同じ新鮮な声のまま最後の幕に到達することだけです」

 観客があなたの側に確かにいると感じることが役に立つはずですね。

 「だれかの側にいるとかいうことではありません。未知の、思ってもいなかった、シンデレラボーイに捕らえられて、観客は歌手の声帯と共に震えるのです。観客は常にニューヒーローが好きなのです。そして、ぼくに言っています。『ヒーロークラブへようこそ』これがぼくが受け取ったメッセージです」

 グリゴーロ氏が自分のことをシンデレラボーイと呼ぶのは、彼の経歴から言って、告解の場での発言同様の正確さだ。コヴェントガーデンの観客でそのことを知っている人は少ない。(グリゴーロ氏がドニゼッティ、ヴェルディ、プッチーニのアリアを歌っているCDをリリースしたところの)ソニークラシカル社長のBogdan Roscicは人々がお互いに「このテノールはだれ? どこから来たの?」と質問し合っていたのを覚えている。
 「これから手に入れるものに関して、だれも準備ができていなかった。これが、衝撃の半分の理由だった」とRoscic氏は言う。

 でもグリゴーロ氏はロンドン近辺にいたし、時には歌ってもいた。まじめなオペラ愛好家たちの知らない分野の歌をいつも歌っていたわけだ。Roscic氏が言うように「珍しい経歴」なのだ。

 1977年イタリアのアレッツォで生まれたヴィットリオはローマで育った。9歳のときシスティーナ礼拝堂合唱団に採用された。何世紀も昔、若い声を保存するために虚勢されかもしれなかったキャリアだ。しかし、グリゴーロ氏の場合は、はるかに幸福な結果となった。

 「ぼくにとって、これは贈物であり栄誉でした。なぜなら、ヴァチカンのミサは別として、ぼくたちは世界中を旅行したからです。アメリカ合衆国にも行きました。35日間で30回のコンサートです。気違い沙汰です。そこで大劇場の4000人の前で独唱しました。ヴィットリオはあなた方にはニュースかもしれませんけど、彼はすでに長い間観客と向き合ってきているのです」

 教皇のコーラスマスターはグリゴーロ氏の声をたとえて「運転手のいない美しいフェラーリのようだ」と言った。そして、教会を超えて、その声は彼に、世俗の栄光をもたらした。彼がローマ歌劇場でプッチーニの「トスカ」の羊飼いの少年として採用されたときもそうだった。パヴァロッティがびっくりして、小さな羊飼いのサイン帳に「a Vittorio Primo」とサインした。地方紙は彼をパヴァロッティーノと呼ぶことにした。それは初期のキャリアを築き始めたとき、彼に貼られたレッテルになった。

 18歳(22歳のはず)のとき、彼のキャリアはすばらしかったので、家族は、彼の声は国宝であるという理由で、彼のために兵役免除を獲得した。個人教授で学び、音楽大学には行かなかった。「あまりにも進んでいたから、大学で勉強する事は何もなかった。ヴェネトの大きなピッツェリアでの「愛の妙薬」から、ウィーン室内オペラの「イタリアのトルコ人」まで幅広くいくつかのオペラの舞台に立ったあと、23歳で「ミラノ、スカラ座での最年少歌手」になった。尤も、オペラではなくて、コンサートだったけど。

 こんな中で、ミュージカルと、彼は「ポペラ」と呼ぶのを好む、クロスオーバーへの分野変更となった。この分野に集中することになった。サイモン・コーウェルに注目されて、コーウェル氏のボーイバンドIl Divoのオーディションのためロンドンに飛んだ。そして、長い間ではなかったが、これに参加した。

 「外見のよい、よい歌手、申し分のない製品を欲しがっていました。彼は、それこそまさしくぼくだと考えたのです。でも、結局始まりませんでした。なぜなら、ぼくが考えを変えたからです。二、三ヶ月一緒にやりました。録音もいくつかしましたが、リリースされませんでした。そして、契約にサインしませんでした。試験的にやっただけだったのです。もしこれに参加したら、オペラからは永遠に去ることになるのではないかと心配になったのです」

 Il Divoを去ることに決めたことについてどう思いますか、振り返ってどうですか。

 「大金を失ったと思います。でも、多大な尊敬を得ました。これはお金では買えないものです」
 Il Divo を去ることはポペラをやめるという意味ではなかった。それどころか、“In the Hands of Love”というロマンチックな歌をカバーしたCDを出した。キャサリン・ジェンキンズとのデュエットもある。このCDはプラチナを達成。クラシックチャートへの受け入れ要求に失敗したあと、英国ポップアルバムチャート第六位となった。

 ポペラは、彼のライフスタイルを、高速車、デザイナーブランドの洋服、今起きたばかりよっといった感じの洗練された雰囲気などを楽しむといった、一定の魅力で、特徴づけたが、彼は自分の要求を満たせず、満足できなかったようだ。2006年、“In the Hands of Love”がリリースされた同じ年、チャンスがあれば、コヴェントガーデンで、報酬なしでロドルフォを歌いたいと、公言した

 それは無意味な発言ではなかった。キャサリン・ジェイキンズと共演のスポットライトを離れて、舞台での地位を、目立たなくても確実に、築こうと頑張り続けた。チューリッヒ歌劇場や他の歌劇場と契約した。それらの劇場は彼の潜在能力を見ていた。軽くて優雅なベルカントの役とリリカルなヴェルディ、マスネ、グノーに留まって注意深くレパートリーを形成した。重量級はまだやらないが、徐々に重さを増していっている。

 「先生が計画をたてました。先生は、大きな役は小さな劇場で、小さな役は大きな劇場ではじめて、それから、大きな役を大きな劇場でするべきだ。そうすれば、だれにも負けない歌手になれると言いました」

 彼はアメリカの契約も得た。シカゴでパヴァロッティのためのコンサートに出演。つづいて、ワシントンで二つのオペラに出演。2007年「ボエーム」プラシド・ドミンゴ指揮、ルネ・フレミング主演のスター公演「ルクレチア・ボルジア」しかし、これらは「彼の」舞台ではなかった。それにニューヨークタイムズのアンソニイ・トマシーニによる彼のジェンナーロ批評は「カリスマがあったが、不安定だった」というものだった。

 コヴェントガーデンの「マノン」は、グリゴーロ氏の新リーグ、デビューだった。以後、彼のスケジュールは一杯だ。イスラエルでズービン・メータとの「リゴレット」、そして、イタリア、マントヴァで、彼のテレビ向きの特質を利用した、その時その場所でのテレビオペラ「リゴレット」は、ヨーロッパ中に生中継された。

 また、彼の最初の厳密な意味でのクラシックアルバム、おおまじめの「イタリアンテノール」が、ソニーから発売される。これは、6年に渡って6つのCDを出すというソニーとの専属契約の最初のCDだ。グリゴーロ氏によるとこの契約にはどの時点かで、ポペラのCDがひとつ含まれる予定だ。彼は選択の余地を残している。

 だが、興味深いことに、このCDのブクレットには、豊富な経歴情報が含まれているのに、過去のポップ歴が全然書かれていない。ソニーのMr. Roscicは、これに関して故意にそうしたわけではないと言い張る。「このCDに関係がある情報ではないというだけだ。ポップ経験は恥じる必要があるようなものではない」と彼は言う。しかし、扱いに注意を要するデリケートな問題のようだ。

 「マノン」の成功の重要性についての質問に対して、グリゴーロ氏はこう答えた。「自分に対しては特に何もいうことはない。よかったことは、批判したがる人たちを黙らせてくれたことだ。ポップアルバムをリリースしたとき、彼らは『これで彼も終わりだろう』と言った。それから「彼は技術的に未熟だ」と言った。この人たちは人生はなんでも全てが非常に確実で固定的なものだと思っているに違いない」 言い換えれば、彼は少なくとも他の人々に対して、証明して見せたいものがあるのだ。だから、再びメトでやる。

 メトのジェネラルマネージャーPeter Gelbは、非正統的なキャリア形成に動じたりしない。「ローマへの道は複数あるように、この歌劇場への道も複数ある」とゲルブ氏は言う。氏は人気のある伝達者という考えを好み、グリゴーロの経験が、次のスーパースターテノールの発見につながるかもしれないと思っている。

 ゲルブ氏は明確に意識しているわけでもないし、パヴァロッティのことを思っているわけでもないが、舞台で観客を夢中にさせるスターを見つける必要があることを認めている。

 「どの世代でも、こういう人はほとんどいません。だから、それを見つけることには大いに興味があります。コヴェントガーデンの「マノン」ドレスリハーサルを見ました。ヴィットリオは観客と不思議なつながりを持っていました。私は彼の潜在能力を確信しました」

 このように確信したゲルブ氏は今グリゴーロ氏と2016年までの契約を結んだ。この「ボエーム」は重大な関係の始まりのようだ。

 一方グリゴーロ氏のソニーとの重要な関係の管理者であるMr. Roscicも、注意深くパヴァロッティを持ち出すことを避けている。次のグレイトテノール探しは「もっとも退屈なゲームで、自分には全然興味がない」ものと片付ける。
 「ヴィットリオはヴィットリオです。すぐに彼とわかる声です。だからこそ彼は目立つのです。パヴァロッティとの比較は我々がやっているのではない。こういう比較は何の役にも立たない」

 グリゴーロ氏自身、そういうことについて考えないと言う。今はチューリッヒを基地にしている。さえない選択かもしれない。金持ちになるには良い場所だが、高速生活には不便だ。高い社会的地位の魅力を考慮し、それによって与えられるものと失うもので決めた。

 彼は言い足す。「だれのものでもない才能なんてない。才能はヴィットリオのもので、常に他者と分かち合うべく存在するのだ」


☆keyakiの補足:
 ポップ活動で「失われた時間」といっても、オペラを歌いはじめた19歳から、オペラの舞台に立ってないのは、一年程度、この間、プロモーションツァーで、イギリス、オーストラリア、アメリカ、オランダ、ロシアを回っています。2006年の《オテロ》から2007年の《椿姫》の間、舞台に立っていないだけです。

 また、ソニー・クラシカルのRoscic氏が、「グリゴーロのポップでの大成功の件」をあえてCDの解説書に書かなかったのは、単純に面倒を避けただけでしょう。私から見れば、グリゴーロのポペラのアルバムがプラチナを獲得したということは誇れることであり宣伝になると思いますが.....それをしなかったのは、ソニーには、ペーター・ホフマンの「ロッククラシック」のアルバムが大ヒットした時の経験がそうさせたのかもしれません。信じられないことですが、純粋主義者たちが脅迫状まで送りつけて来たそうです。

 グリゴーロ自身は、ポペラで成功したことを隠したい事実だと思っているはずがありません。ニューヨークタイムズの記事にもあるように、実際にどうなるかは分かりませんが、今後発売されるCDの中には、ポペラのアルバムも1枚含まれると言っています。ポップに関するインタビューを関連記事にリンクしていますので、興味のある方はご覧下さい。「若い人にもオペラを見に来て欲しい、だからポペラでも成功したい」と述べています。Il Divoに参加しなかったのは、正しい判断だったと思います。どうみても4人で一組のグループにおさまるとは思えません。

 オペラとポップ活動の両方で成功するということは、クラシック純粋主義者から反感を買いますし、Il Divoとかボチェッリの一部のファンからは「グリゴーロ生意気、大嫌い」と言われていますが、どちらもほんの一部に過ぎないと思います。音楽を愛する人たちは、どちらも認めていますし、両方楽しんでいる人も多いはずです。事実、オペラアリア集「The Italian Tenor」の発売で、ポペラのアルバム"In The Hands of Love/Vittorio"も売上げアップしています。

関連記事:
[インタビュー&記事]
ヴィットリオ・グリゴーロ単独でポップス界へ(2006.2.26)
ロッシーニ・ガラ(シドニー)前日のインタビュー(2007.5.16):"Il Divo"のことも....
若い人にもオペラを見に来て欲しい....だからポップでも成功したい...V.グリゴーロ
nice!(0)  コメント(5)  トラックバック(1) 

nice! 0

コメント 5

Sheva

keyakiさま翻訳お疲れ様です。
すばらしい!
ありがとうございます。参考にします。
by Sheva (2010-10-25 09:21) 

euridice

>ペーター・ホフマンの
「ロッククラシック」は1982年で、翌年1983年には「ワーグナーを歌う」が発売されています。そこで、そのブックレット(外国盤)を確認してみました。英独仏の歌手紹介文が掲載されています。高校時代バンドをやったということは書いてありますけど、「ロッククラシック」については一言も触れられていません。現ソニー社長の言う通り、ただ単に「関係がある情報ではない」からというだけなのかもしれません。クラシック純粋主義者の言動を知れば、裏もないとは断言できませんけどね。

一方「ロッククラシック」のほうは、私が所有しているレコード(外国盤)にはブックレットなど入ってないし、歌手紹介も皆無です。歌手の名前や経歴で売る気もないし、それで売れるはずもないということなのでしょうか。




by euridice (2010-10-25 10:40) 

euridice

今更ですが、古〜〜い記事をTBしました。承認よろしく!
by euridice (2010-10-25 17:58) 

keyaki

Shevaさん
お褒め頂いて光栄です.....と言いたいところですが、ちゃんと日本語にするのは私には無理なんです。同好の知人にお願いしました。
とても分かり易い日本語になっていますよね。

一流紙にこれだけ大きく取り上げられるということは、そうそうあることではないと思います。グリゴーロもオリンポスの入口に立ったということでしょうか......
by keyaki (2010-10-25 21:17) 

keyaki

euridiceさん
TBありがとうございます。
グリゴーロは、本当に不思議なくらいペーター・ホフマンと共通するところがありますね。

グリゴーロのポペラのアルバム"In The Hands of Love/Vittorio"にも歌手の経歴は全くないです。曲目だけです。
>歌手の名前や経歴で売る気もないし、それで売れるはずもないということなのでしょうか。
そうみたいですね。
オペラ歌手は、どこの劇場で歌ったとか、どういう指揮者と共演したかも重要みたいですね。

by keyaki (2010-10-25 21:31) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 1