演劇的センスの良さと衝撃的歌唱:WNO《ルクレツィア・ボルジア》オペラ雑誌のレビュー [ルクレツィア・ボルジア]
★ここで取り上げた雑誌のレビューを書いたティム・スミス氏は、ボルチモア・サンとオペラ・ニュースにも投稿していました。比較するとなかなか面白いので、本文中に追記しました。(2009.2.16)
2008年11月1〜17日のワシントン・ナショナルオペラの《ルクレツィア・ボルジア》は公演中に、次々たくさん評論が出ましたが、今回はオペラ雑誌(イギリス)のレビューです。ヴィットリオ・グリゴーロのジェンナーロの部分を抜粋します。
『ジェンナーロ役のヴィットリオ・グリゴーロも、彼は彼なりに独特のスター性を発散していた。ヘアスプレーでぴんぴんの金髪にして、身体にぴったり合ったぴちぴちのディスコにふさわしいヴィンテージ物の、"Are You Being Served?" のすごく狂ったエピソードにでてくるハンフリーズ氏が見せびらかしていたものを彷彿とさせる衣装に身を包んだ、若いイタリア人テノールは、すばらしいセンスの良さでこの役を生き生きと描き出した。グリゴーロの声は"ping"がすごく効いていて、パワーがあふれている。しかし、数年前(2007年9月)に、この劇場で歌ったロドルフォのときと同様、彼の歌唱は、彼の発声の限界を超えているように感じる。この歌唱の電気ショックのような衝撃を楽しむのは簡単だが、支払われる犠牲について心配せずにはいられない。微妙な強弱感が比較的希薄なのももうひとつ気になるところだ。』
筆者は、「発声の限界を超えているように感じる」とか「支払われる犠牲について心配せずにはいられない」とか言ってますが、これは、不覚にもグリゴーロの歌唱に惹き込まれて、ついつい楽しんでしまったのが、こけんにかかわるとでも思っているようなかんじですね。こんなに全力で歌っていると長持ちしないぞ....というのは、評論家の常套句ですが、これは、「素晴しい、感動した...」ということの裏返しではないかと思います。ますます聞きたくなりました。早く放送して下さい。
★WNO,ドニゼッティ作曲《ルクレツィア・ボルジア》新演出 2008年11月1〜17日 全7公演
Plácido Domingo指揮,John Pascoe演出,Renée Fleming,Vittorio Grigolo,Ruggero Raimondi,Kate Aldrich
以下全文:
オペラ界ではまだスター性というものがけっこう重要な意味を持っている。そして、少なくとも合衆国では、ルネ・フレミングが最高のスターだ。ワシントン・ナショナル・オペラはこのソプラノの、彼女用に制作されたドニゼッティのルクレチア・ボルジアの刺激的な新演出での、この劇場へのデビューによって、チケットの売り上げを多いに伸ばし、ほくほくだった。11月1日、ケネディ・センターで、フレミングは、つややかな輝かしい響きと官能的なフレージングと情緒的な激しさのタイトルロールだった。時おり技術的な不安定さがあったが、特に低音域の豊かさが優れている、彼女の歌唱に、大きな悪影響を与えるものではなかった。フレミングは装飾音は抑制し控えめにした。この役で十年前にスカラ座にデビューして、天井桟敷から手ひどい扱いを受けたときに試みたように、より高い音へあえて飛ぶというようなことは全くしなかった。ルクレチアの優しく母性的側面を強調する役作りが効果的だったが、演出兼装置のジョン・パスコーが彼女のために制作したサドの女王のような徴発的な衣装のフィナーレとは合わなかった。
ジェンナーロ役のヴィットリオ・グリゴーロも、彼は彼なりに独特のスター性を発散していた。ヘアスプレーでぴんぴんの金髪にして、身体にぴったり合ったぴちぴちのディスコにふさわしいヴィンテージ物の、"Are You Being Served?" のすごく狂ったエピソードにでてくるハンフリーズ氏が見せびらかしていたものを彷彿とさせる衣装に身を包んだ、若いイタリア人テノールは、すばらしいセンスの良さでこの役を生き生きと描き出した。グリゴーロの声は"ping"がすごく効いていて、パワーがあふれている。しかし、数年前にこの劇場で歌ったロドルフォのときと同様、彼の歌唱は、彼の発声の限界を超えているように感じる。この歌唱の電気ショックのような衝撃を楽しむのは簡単だが、支払われる犠牲について心配せずにはいられない。微妙な強弱感が比較的希薄なのももうひとつ気になるところだ。
ルッジェーロ・ライモンディはアルフォンソ役にベテランの技を提供して、明瞭な人物像を創造した。(文字通り、怒ってルクレチアを容赦しなかった)声は力がなく集中力に欠けるし、高音はちょっとすりへっている感じだが、これらは、演奏スタイルのありあまるほどのすばらしさによって、大きな欠点とはなっていない。
ケイト・オルドリッチのオルシーニは規模の大きなりりしい声とニュアンスのある美しい所作によって観客を興奮させた。乾杯の歌を魅力的に歌いあげ、"Onde a lei ti mostri grato"は特別に豊かな陰影を醸した。
脇役のなかでは、ロバート・カントレル(グベッタ)とYingxi Zhang(ルスティゲッロ) があざやかだった。合唱とオーケストラは概して安定していた。プラシド・ドミンゴは正確さよりも情熱が勝った指揮をした。
パスコーの演出は彼のどっしりした装置の中で、物事をスムーズに動かした。一部の衣装は少々目障りだったが、この演出は確かに見るべきものがあった。そして、またこの演出は、若いが一人前の男のあからさまな肉体関係を伴う色恋沙汰として見せつけられるジェンナーロとオルシーニの友情が、ゲイ感覚の好奇心をそそる説得力のあるものだった。(2009年3月:Tim Smith)
関連記事:WNO《ルクレツィア・ボルジア》
2008年11月1〜17日のワシントン・ナショナルオペラの《ルクレツィア・ボルジア》は公演中に、次々たくさん評論が出ましたが、今回はオペラ雑誌(イギリス)のレビューです。ヴィットリオ・グリゴーロのジェンナーロの部分を抜粋します。
『ジェンナーロ役のヴィットリオ・グリゴーロも、彼は彼なりに独特のスター性を発散していた。ヘアスプレーでぴんぴんの金髪にして、身体にぴったり合ったぴちぴちのディスコにふさわしいヴィンテージ物の、"Are You Being Served?" のすごく狂ったエピソードにでてくるハンフリーズ氏が見せびらかしていたものを彷彿とさせる衣装に身を包んだ、若いイタリア人テノールは、すばらしいセンスの良さでこの役を生き生きと描き出した。グリゴーロの声は"ping"がすごく効いていて、パワーがあふれている。しかし、数年前(2007年9月)に、この劇場で歌ったロドルフォのときと同様、彼の歌唱は、彼の発声の限界を超えているように感じる。この歌唱の電気ショックのような衝撃を楽しむのは簡単だが、支払われる犠牲について心配せずにはいられない。微妙な強弱感が比較的希薄なのももうひとつ気になるところだ。』
筆者は、「発声の限界を超えているように感じる」とか「支払われる犠牲について心配せずにはいられない」とか言ってますが、これは、不覚にもグリゴーロの歌唱に惹き込まれて、ついつい楽しんでしまったのが、こけんにかかわるとでも思っているようなかんじですね。こんなに全力で歌っていると長持ちしないぞ....というのは、評論家の常套句ですが、これは、「素晴しい、感動した...」ということの裏返しではないかと思います。ますます聞きたくなりました。早く放送して下さい。
★WNO,ドニゼッティ作曲《ルクレツィア・ボルジア》新演出 2008年11月1〜17日 全7公演
Plácido Domingo指揮,John Pascoe演出,Renée Fleming,Vittorio Grigolo,Ruggero Raimondi,Kate Aldrich
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以下全文:
オペラ界ではまだスター性というものがけっこう重要な意味を持っている。そして、少なくとも合衆国では、ルネ・フレミングが最高のスターだ。ワシントン・ナショナル・オペラはこのソプラノの、彼女用に制作されたドニゼッティのルクレチア・ボルジアの刺激的な新演出での、この劇場へのデビューによって、チケットの売り上げを多いに伸ばし、ほくほくだった。11月1日、ケネディ・センターで、フレミングは、つややかな輝かしい響きと官能的なフレージングと情緒的な激しさのタイトルロールだった。時おり技術的な不安定さがあったが、特に低音域の豊かさが優れている、彼女の歌唱に、大きな悪影響を与えるものではなかった。フレミングは装飾音は抑制し控えめにした。この役で十年前にスカラ座にデビューして、天井桟敷から手ひどい扱いを受けたときに試みたように、より高い音へあえて飛ぶというようなことは全くしなかった。ルクレチアの優しく母性的側面を強調する役作りが効果的だったが、演出兼装置のジョン・パスコーが彼女のために制作したサドの女王のような徴発的な衣装のフィナーレとは合わなかった。
ジェンナーロ役のヴィットリオ・グリゴーロも、彼は彼なりに独特のスター性を発散していた。ヘアスプレーでぴんぴんの金髪にして、身体にぴったり合ったぴちぴちのディスコにふさわしいヴィンテージ物の、"Are You Being Served?" のすごく狂ったエピソードにでてくるハンフリーズ氏が見せびらかしていたものを彷彿とさせる衣装に身を包んだ、若いイタリア人テノールは、すばらしいセンスの良さでこの役を生き生きと描き出した。グリゴーロの声は"ping"がすごく効いていて、パワーがあふれている。しかし、数年前にこの劇場で歌ったロドルフォのときと同様、彼の歌唱は、彼の発声の限界を超えているように感じる。この歌唱の電気ショックのような衝撃を楽しむのは簡単だが、支払われる犠牲について心配せずにはいられない。微妙な強弱感が比較的希薄なのももうひとつ気になるところだ。
ルッジェーロ・ライモンディはアルフォンソ役にベテランの技を提供して、明瞭な人物像を創造した。(文字通り、怒ってルクレチアを容赦しなかった)声は力がなく集中力に欠けるし、高音はちょっとすりへっている感じだが、これらは、演奏スタイルのありあまるほどのすばらしさによって、大きな欠点とはなっていない。
ケイト・オルドリッチのオルシーニは規模の大きなりりしい声とニュアンスのある美しい所作によって観客を興奮させた。乾杯の歌を魅力的に歌いあげ、"Onde a lei ti mostri grato"は特別に豊かな陰影を醸した。
脇役のなかでは、ロバート・カントレル(グベッタ)とYingxi Zhang(ルスティゲッロ) があざやかだった。合唱とオーケストラは概して安定していた。プラシド・ドミンゴは正確さよりも情熱が勝った指揮をした。
パスコーの演出は彼のどっしりした装置の中で、物事をスムーズに動かした。一部の衣装は少々目障りだったが、この演出は確かに見るべきものがあった。そして、またこの演出は、若いが一人前の男のあからさまな肉体関係を伴う色恋沙汰として見せつけられるジェンナーロとオルシーニの友情が、ゲイ感覚の好奇心をそそる説得力のあるものだった。(2009年3月:Tim Smith)
関連記事:WNO《ルクレツィア・ボルジア》
>彼の歌唱は、彼の発声の限界を超えているように感じる。この歌唱の電気ショックのような衝撃を楽しむのは簡単だが、支払われる犠牲について心配せずにはいられない。
まさに常套文句ですね。笑えます。少なくともそれはこのパフォーマンスに置ける彼の歌唱自体とは関連性がない問題ですよね。
実際にグリゴーロ君が喉に無理を強いているかどうかは本人と、本人を良く知る人物(先生とか)位にしか判らないのではないでしょうか。それにこれは歌手本人の問題ですよね。例えばディステファノは全盛期は短かったけれど、立派に後世に名を残しています。
素晴らし過ぎて褒めるだけでは批評にならないから何か貶す部分を無理矢理作っているようにしか思えませんね。
by babyfairy (2009-02-16 08:56)
babyfairyさん
面白いものを発見しました。あとで本文中にリンクしますが、Opera Newsにも同じティム・スミス氏が投稿していますが、「心配」みたいなことは全く書いてません。
http://www.metoperafamily.org/operanews/review/review.aspx?id=2668&issueID=330
それにどこかで似た内容を見たと思ったら、ボルチモア・サンのレビューもこの方でした。
ということは、イギリス人向きに手直しして書いたってことかな。(笑
by keyaki (2009-02-16 10:00)